感想家の生れでるために

みたものと考えたこと

床に転がったギリシャ彫刻についての覚え書き

ディミトリス・パパイオアヌーのパフォーマンス「THE GREAT TAMER」を観た。

ヴッパタール舞踊団の「カーネーション(NELKEN)」を彩の国さいたま芸術劇場で観たのがもう3年前のこと。そのヴッパタールがピナの死後にはじめて迎えたゲストアーティストとして知られている彼が、ついに満を持しての初来日公演。公演の告知がなされてから今まで、奇妙なトレイラー映像をもう何度観たことか。

 

https://youtu.be/p1BYyo31TeU

 

2001年宇宙の旅を彷彿とさせる「美しき青きドナウ」がゆっくりと流れるなか、舞台上に設置されたいびつな斜面の上で、男性がおもむろに裸になるところからパフォーマンスは始まる。90分という時間は長くそして短く、「いったい何を見せつけられてるんだ?!」と終始困惑しているうちに幕を閉じた。

 

絵画とか彫刻とかコンテンポラリーダンスとか、エロスとかタナトスとか儀式とか宗教とか。ほどよくちりばめられた文化的な文脈を拾って感想を並べたてることはいくらでもできそうな気がする。(ギリシャのエリートアーティストはなんとまあシュミのよい愉しみを惜しみなくご提供くださることか!)
だけどどんな言葉も、実際に目の前にむき出しにされたものを表すに十分ではない。"アイ"とか"シューキョー"とか"シ"とかの概念的な言葉が、発語と同時に空っぽな音として散らばってしまうのと同じこと。

 

だって、出くわしたことありますか? ぶつ切りにされた腕や足や胴体がウゴウゴと目の前を通りすぎるところを。死体みたいに青白い人体を宇宙飛行士が地面から引っぱりあげる姿を。複数の男性下半身がぼろんと露出し、オームの足みたいに重なりながら前進するさまを。

視覚的な衝撃だけじゃない。舞台上のダンサーたちは各々、息をのむほどに端正な身体をもつ。しかしそれらは容赦なくバラバラにされ、絵画的・彫刻的・演出的な意図をもって舞台上で再構成される。たしかに彼ら彼女らの身体は美しい。しかしそれは人間としてではなく、美術館に置かれた彫刻と同等なものとして美しいのだ。身体とユーモアが冒涜ぎりぎりに晒されながらショーは展開していく。

 

昨年ずいぶんなヒットを飛ばしたルカ・グァダニーノ監督の映画「君の名前で僕を呼んで」では、みずみずしい人間の体や西欧的知性への讚美をあらわすモチーフとしてたびたびギリシャ彫刻が使われた。ひるがえってパパイオアヌーは、同じモチーフを多用しながら、身体と人間のあり方を徹底的に揺さぶり、問い、挑発する。

 

パンフレット内のインタビューの中でパパイオアヌーはこう言っている。
「視覚的な連想で遊びたいのです。私が受け継いだ遺産、西欧文化の歴史に関する、一種のコミュニケーションの遊びですね。ギリシャ人である私は、西欧文化の中心にいるのですから。」