床に転がったギリシャ彫刻についての覚え書き
ディミトリス・パパイオアヌーのパフォーマンス「THE GREAT TAMER」を観た。
ヴッパタール舞踊団の「カーネーション(NELKEN)」を彩の国さいたま芸術劇場で観たのがもう3年前のこと。そのヴッパタールがピナの死後にはじめて迎えたゲストアーティストとして知られている彼が、ついに満を持しての初来日公演。公演の告知がなされてから今まで、奇妙なトレイラー映像をもう何度観たことか。
2001年宇宙の旅を彷彿とさせる「美しき青きドナウ」がゆっくりと流れるなか、舞台上に設置されたいびつな斜面の上で、男性がおもむろに裸になるところからパフォーマンスは始まる。90分という時間は長くそして短く、「いったい何を見せつけられてるんだ?!」と終始困惑しているうちに幕を閉じた。
絵画とか彫刻とかコンテンポラリーダンスとか、エロスとかタナトスとか儀式とか宗教とか。ほどよくちりばめられた文化的な文脈を拾って感想を並べたてることはいくらでもできそうな気がする。(ギリシャのエリートアーティストはなんとまあシュミのよい愉しみを惜しみなくご提供くださることか!)
だけどどんな言葉も、実際に目の前にむき出しにされたものを表すに十分ではない。"アイ"とか"シューキョー"とか"シ"とかの概念的な言葉が、発語と同時に空っぽな音として散らばってしまうのと同じこと。
だって、出くわしたことありますか? ぶつ切りにされた腕や足や胴体がウゴウゴと目の前を通りすぎるところを。死体みたいに青白い人体を宇宙飛行士が地面から引っぱりあげる姿を。複数の男性下半身がぼろんと露出し、オームの足みたいに重なりながら前進するさまを。
視覚的な衝撃だけじゃない。舞台上のダンサーたちは各々、息をのむほどに端正な身体をもつ。しかしそれらは容赦なくバラバラにされ、絵画的・彫刻的・演出的な意図をもって舞台上で再構成される。たしかに彼ら彼女らの身体は美しい。しかしそれは人間としてではなく、美術館に置かれた彫刻と同等なものとして美しいのだ。身体とユーモアが冒涜ぎりぎりに晒されながらショーは展開していく。
昨年ずいぶんなヒットを飛ばしたルカ・グァダニーノ監督の映画「君の名前で僕を呼んで」では、みずみずしい人間の体や西欧的知性への讚美をあらわすモチーフとしてたびたびギリシャ彫刻が使われた。ひるがえってパパイオアヌーは、同じモチーフを多用しながら、身体と人間のあり方を徹底的に揺さぶり、問い、挑発する。
パンフレット内のインタビューの中でパパイオアヌーはこう言っている。
「視覚的な連想で遊びたいのです。私が受け継いだ遺産、西欧文化の歴史に関する、一種のコミュニケーションの遊びですね。ギリシャ人である私は、西欧文化の中心にいるのですから。」
取り憑かれたアーカイヴァー ー山内光枝「つれ潮」
konya2023.travelers-project.info
比較的長い映像作品だったけれど、なぜか見入ってしまった。
山内光枝さんという方は、ずっと海女をテーマに映像作品を作っている方らしい。
展覧会のステイトメントは以下。
対馬の東海岸に位置する海民の村、曲=マガリ。
その最後の現役海女ともいえる82歳のおばちゃんが
時折ひとり言のようにつぶやいていた。
永い間、対馬一円の海を自由に操業できる
島では唯一の専業漁民であった曲の海人。
その先人たちは数百年のむかし、対岸の筑前鐘ヶ崎、
現在の福岡県宗像市鐘崎からやってきたといわれている。
海とともに暮らすおばちゃんたちの
清も濁も生き生きと交わり流れる世界に出逢っておよそ8年。
少しずつ積み重ねてきたものが今、ひとつの潮時を向かえ
わたしたちはその流れに身をまかせるように海峡を渡り
原郷・鐘崎へと向かった。
この映像を作品とか、ましてやドキュメンタリーとかいうくくりとして説明するのはすごく難しい。なにせ、撮影する人=山内さん と、撮影される人=海女のおばあちゃんや集落の人とが、あまりにもねっとりと、近い関係にありすぎるのだから。
目の前にある対象と適切な距離を取り、適切な編集をほどこして仕上げる類のドキュメンタリー映画では見たことのないような、一見すると冗長で無駄・意味不明っぽい長回しがずるずると続く。にもかかわらず不思議と目が離せないのは、この映像がなにかをドキュメントするものではなく、ひたすらに山内さんとマガリの海女さんとの間に流れる時間そのものを「何か残るかたち」へ写しとることに徹しているからか。
山内さんは被写体を被写体だと思っていないし、そもそも彼女自身が、彼女の構えるカメラの中へずぶりと入ってしまって、「撮る」とか「見る」とかを放棄している。
「取り憑かれている」という表現がいちばんしっくりくるな、と思った。
取り憑かれたものによるアーカイブ。今わたしたちを通り過ぎているこの時間とは別の時間に、いやおうなくひきずりこまれる。
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<展覧会情報>
konya-gallery 10周年企画
ゲストディレクタープログラムvol.2 正路佐知子
【第1期】その海のあぶくの
田代一倫「ウルルンド」、山内光枝「つれ潮」
■2018年10月12日(金)-10月28日(日)
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ぬめぬめと生温かい血がしたたる言葉ー車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』
この小説に出てくる人間の言葉はどれも、切れば生温かい血がしたたり落ちるような、おぞましさすらある「生の声」だった。
血の匂い、身を持ち崩した男が暮らす部屋の匂い、皮膚の焼ける匂い、精液、体液、串刺しにされて並べられた病気の豚の内臓の匂い……。なまなましい匂いが言葉の間と間に満ちていて、息ができない。
Hello world again
大学2回生のときから9年ほど愛用していたMacBook(白)を卒業し、銀色のピカピカしたMacBook Airをついに購入した。
アップルストアでさんざん触りまくったあげく公式ページで整備済みが出るのをじいいっと待って、ようやくゲット。
それなりにまとまった文章を、いつか誰かが見つけるような場所で書きたいとほぼ3ヶ月ごとくらいに決意してはずるずるとやらないでいたけれど、
これからはわたくしも善良なはてな市民として粛々とよしなしごとを書いて参る所存です。